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創業融資 創業計画書

創業融資を受けるには、どうしたらよいのでしょうか?
こんどIT企業を立ち上げるにあたり、創業融資を受けたいと思っていますが、
創業計画書とか、まじで時間がかかりそうで困っています。
創業融資について調べるうちに、伊丹万作の著作権切れの文章にはまってしまいました。
以下、著作権切れなので、みなさまと一部シェア!
 たとえばユゴーといえば我々はすぐに「レ・ミゼラブル」を想起するが、彼の本国において散文作家としてのユゴーよりも詩人としてのユゴーのほうがはるかに高く評価されているようである。しかし我々はユゴーに詩があることさえろくに知らない。この一例は芸術の範疇によつて国際性に径庭のある事実を端的に物語つているが、同時にまた、価値の高いものでさえあれば国際性を持つという意見が必ずしも正しくないことを証拠立ててもいるのである。
 さらに次のような例もある。すなわち我々は過去において外国の探偵小説を読み、それらの作家の名前までおぼえてしまつた。しかし、それらとは比較にもならないほど高い作家である鴎外の名を知つている外国人が果して何人あるだろう。ここにもまた国際性が決して価値に比例しない実例を見る。
 優れた作品を作りさえすれば、それらは易々と国外に進出するという楽観論は、芸術に国際性のみを認めて民族性のあることを見落したずさんな議論であつてまだ思考が浅いのである。
 いま、日本の政治は何より映画の国際性を利用しようと焦つているのであるが、ここで特に為政者に深く考えてもらいたいことは芸術においては国際性というものはむしろ第二義の問題だということである。しからば芸術における第一義の問題は何か。他なし。芸術の第一義は実に民族性ということである。
 諸君はハマモノという言葉を知つているであろう。いい換えれば横浜芸術である。民族に根ざし、民族に生れた芸術が、自己の民族に対する奉仕を忘れて国際性を第一義とし、輸出を目的とした場合、それはたちまちハマモノに転落し国籍不明の混血児ができあがるのである。「新しき土」はその悲惨なる一例である。この種のものは芸術国日本の真価を傷つけこそすれ、決して真の意味の政治に役立つはずはないと私は今にして確信する。
 くり返していう。芸術は何よりもまずその民族のものである。したがつて自己の所属する民族に奉仕する以外には何ごとも考える必要はない。いな、むしろ考えてはならぬのである。自己の民族への奉仕をまつとうし、民族芸術としての責務をはたしたうえ、さらに余力をもつて国境を越えて行くなら、それはよろこばしいことであるが、最初から他の民族への迎合を考えて右顧左眄し始めたらそれはすでに芸術の自殺である。
創業融資についてもちろん、伊丹は何も語っていませんが、そこは確かに世界の伊丹。
創業融資についても、行間からにじみ出るものがあります。
 かくのごとき重要なる国家の構成分子の生活を除外してどこに芸術があろう。日本には百姓もいない。貧者もいない。いるのは軍人と金持だけであり、それが立派な洋館に住み、洋服を着て椅子に腰掛け、動けば雄大なる構想をもつて大活躍を演ずるというのが彼らのいう外地向きの映画なのだ。このような映画の作れる人は作るがよい。私には不可能である。
 ここで第二の意見の検討に移る。すなわち優秀なる映画さえ作れば、進出は期して待つべしという説である。なるほどこの説はある程度まで正しい。しかし要するにある程度までである。
 なぜか。今それを明らかにする。芸術が民族の生活のうえに咲く花だということを私はすでにいつた。ここに大きな問題がある。もちろん芸術には国際性もある。すぐれた芸術にしてしかも国際性を持つものは、その属する民族の生活をうるおしたうえ、さらに流出し国境の外へひろがつて行く。しかしいかに優れた芸術でもあまりにも民族性が濃厚で国際性に乏しい場合は他邦で理解せられず、したがつて国境を越えない場合がある。
 たとえば芭蕉の俳句である。万葉の歌である。これらは民族の芸術としては世界に誇つていいものであるが国際性はない。しかるに浮世絵の場合になると、あれほど民族性が濃厚でありながら、造型芸術なるゆえに案外理解せられて国境を越えて行つた。(あるいは浮世絵の持つエロチシズムが多分に働いているかもしれないが。)
 ここにはむろん芸術の範疇の問題もある。すなわち絵画は文学よりも国際性があり、散文は詩よりも国際性に富むという類である。
創業融資について、上記伊丹万作の文章はご参考になりましたか?
事業計画書をつくるなら、日本政策金融公庫のHPもよいですが、
創業融資についてはいろいろな行政書士のHPも参考となりますね。